本が読めない人も読めるようになるパレートの法則を知っていますか?

 

    

 

 パレートの法則とは、イタリアの経済学者 ヴィルフレド・パレートが提唱した理論であり、「20:80の法則」とも呼ばれる 。この20:80の法則とは、社会のあらゆる活動現象において重要なものの20%の中に80%の成果が含まれている、という事実を指摘した。例として、「10名が参加した会議で2名が約8割の発言を行う。」「多くの企業におて、 2割のトップセールスマンが収益の8割をはじき出している。」といったものが挙げられる(パレートによるこの法則の発見は1987年。ヨーロッパ諸国の統計を分析した結果、社会の富の80%が20%の人々に集中していることに気付いたことに基づく法則である。)
 このパレートの法則は本を読む際にも有効だ。本に書いてある重要な2割を読めば、全体の8割の内容を把握したことになる。メンタリストとして有名なDaigo氏は著書「自分を操る超集中力」で、「私は1日に20冊本を読む」と述べていた。20冊の本を最初から最後まで全部読んでいては24時間丸々費やしたとしても難しい。Diagoさんもこのパレートの法則を活用して本を読んでいると考えるのが妥当だ。この法則を活用して本を読む時に大事なのは、「重要な2割をどうやって見つけるか」だ。仮に適当に本の2割を読んだとしても、その部分がさほど重要でなければ8割の成果を上げることはできない 。Daigoさんはこの重要な2割を見つけ出す「直感」が優れているのではないか。では、その直感をどのようにして身につけるか。その方法の1つとして、まず最初に全体を把握することが挙げられる 。「分からないところがあってもまず先に進んでみてその後の内容を読んでみると、つまずいていた部分が理解できる」、といったことが往々にしてあり得る。なので、まず最初に目次を読んで全体を把握する。次に全体を流し読み程度に読む。(この時、一文字ずつ追うのではなく、全体の内容を俯瞰するイメージで読み進めていく。)難しい所、重要じゃないと思ったところは章ごと飛ばしても良い。最後までいったらまた本の最初に戻って、わからなかったところ、重要だと思ったところのみを読み進めていく。このような方法で読めば直感も鍛えられていくと考える。(私は素人なので参考程度にしていただきたい。) 
 この機会に本の2割の部分に8割のことが書いてあるというパレートの法則を知っていただき、本を読むきっかけにしていただければ幸いである 。

参考文献:超「超」勉強法、野口悠紀雄、プレジデント社

ドローンを戦争の兵器に使わないでほしい 


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12日の日本経済新聞では、「新技術が埋める戦力差」というタイトルで、ウクライナにあるドローンのテスト場での現地取材の記事が掲載されていた。以下はその一部を抜粋したものである 。
 「ウクライナの新興企業であるスカイ・ラブが所有している攻撃ドローン「シューリカ」が投下する爆弾は一発で戦車を破壊できる攻撃力を持つ。ウクライナのドローンの消耗は 月1万機を超えるとの試算もある。」など
 もちろん、ウクライナは軍事侵攻された側なのでウクライナ側に非はない。これはロシア政府に言いたいことだ。今全世界の人が一体となって行わなければならないのは、国連が掲げるSDGsの達成ではないのか。今生きている人たちは、未来に生きる人たちのために、我々人類が破壊してしまった地球環境を、貧困格差を改善しなければならない。SDGsが掲げる目標1は「貧困をなくそう」、 目標2は「飢餓を0に」である。ドローンはこれらの目標を達成するために使われるべきだ。食料供給チェーンおよび物流インフラの改善にはドローンが有効だとされている。しかし、そのドローンの使用には多くの課題が残っている。安全性の問題、通信システムの問題、飛行距離の問題、これらを解決するには多くのトライ&エラーが必要になる。ウクライナ軍が1ヶ月で消耗するドローン1万機があれば、物流改善を目的とする試行が何回できるだろうか。その試行がもたらす結果によって、何人の貧困に対する解決策が見つかるだろうか、何人の飢餓に対するアプローチができるだろうか 。
 こんなのただの独り言である。私には地位がない、権力がない。発言がもたらす影響力がない。「ドローンはもともと軍事利用のために作られたんだよ?」そんなことは知っている。ただ、人のために使える科学技術がこのような形で使われるのは正しいとは思えない。この考えが誰かの目にとまってくれれば幸いだ。この課題を誰かと共に解決したい。
 
参考文献:日本経済新聞 912日 )

「不快」の排除

 


僕は赤ちゃんの鳴き声をうるさいと思うことがある。だが、そう発言すると、子供がいる親や、赤ちゃんに対して一定の理解がある人達からは、「親になったら分かる」とか、「あなたには心がないのか?」などと言われる。ただ、僕はうるさいと思うだけで、そのうるさいと思う感情に付随して、何か行動を起こすわけではない。僕の対処法は至ってシンプル。何もしない。時が流れ、赤ちゃんの鳴き声が聞こえなくなるのを待つ。善良な行動をするわけではなく、ましてや不道徳な行動をするわけでもない。「何もしない」は正しいのか?正しくないのか?善良な心を持っている人は、思いやりが働き、赤ちゃんに泣きやんでもらおうと努める。反対に、邪悪な心を持った人は赤ちゃんの泣き声を不快に感じ、その不快な存在を排除しようと考え、行動する。赤ちゃん、またはその親に対して、「うるさい!」、「そいつを黙らせろ!」などと罵声を浴びせるかもしれない。また、それで収まらない人は暴力的な行動で対象を排除しようとするかもしれない。犯罪を犯すことだってありえる。 
 僕は悪いことを考えるのは別に構わないと思う。推理小説は頭の中で一度人を殺さないと描けない。でも、それを行動に移してしまうのは悪だと考える。自分の手によって赤ちゃんが泣き止んだ世界を妄想して、怒りの感情を収めてほしいと思う。そう考えると、やはり僕の行動は正しいとは言えないが、悪でもないと思う。ただ、赤ちゃんを持つ親にしても、赤ちゃんに対して一定の理解がある人達にしても、赤ちゃんの泣き声を不快に思う、または思ってしまった経験はあるのではないか? 
 人は今まで都市化を進めていくに従って、不快と思うものを排除してきた、牛や豚、鳥などの生き物を殺す事は不快だから、「お金」によって生き物を殺す行為を知らない誰かに任せ、自分たちの生活から排除した。日本は敗戦国という汚名を返上するため、経済を成長させた。大量生産、大量消費の社会に労働者が働く意味を考えることは企業にとって何の利益もない。むしろ労働者が主体的、創造的になってしまうと、いつ会社を辞めてしまうか分からない。だから労働者を機械化させ、労働者の思考を排除した。この連鎖が今後も続いて良いものなのか。この連鎖の先には赤ちゃんの泣き声を排除することが待っていないか?科学技術、医療技術の進歩でそれが可能になってしまうかもしれない。だが、もしそうなった時に大事なのは、それが正しいのかを一度立ち止まって考えることだ。既に世の中ではそのようなことが起こっているかもしれない。もう立ち止まらないといけないのかもしれない。

僕が男子禁制の書、「男のトリセツ」を買ってしまったことによる著者への懸念


先日ブックオフに行ったところ、この本の前で足が止まった。本のタイトルは「男のトリセツ」、著者は神崎メリという方だ。書店にこの本が陳列してあった時、多くの男性は、「へ~、こんな本が売っているのか~、おもしろいね~…….、さ!漫画、漫画~(そして、漫画のコーナーへ)」といった感じで気にせず通り過ぎるだろう。でも、僕はそうはならなかった。むしろ不安になった。「もしかして、僕が将来好きになった女の人がこの本を人生のバイブルとして持っていたら、僕はまるでバービー人形のようなただのおもちゃとして取り扱われてしまうのではないか。」と。先々の不安は早めに取り除かねばならない。買う以外の手段はなかった。しかし、家に着いて冷静になって考えてみた。果たしてこれは許される行為なのだろうか。男が「男のトリセツ」を読んでいいものなのか。
 ChatGPTに関しても同様の問題が存在する。よく、大学関係者の間では学生のChatGPTの取り扱いについてさまざまな議論が交わされる。その一つとして挙げられるのが、レポートを書く際にChatGPTを使っていいのかという問題だ。仮に、大学側が使ってはいけないと判断した場合、「レポートにChatGPTが使われたかを判別できるシステム」を大学側が導入する。これで一時的には解決する。しかししばらくすると今度は、学生側が「ChatGPTが使われたかを判別するシステムを通り抜けるシステム」をつくる。するとそれに対抗して、「ChatGPTが使われたかを判別できるシステムを通り抜けた論文をまたさらに判別するシステム」をつくる。すると今度は。というようにいたちごっこになってしまう。もし「男のトリセツ」を男が読んでしまった場合、著者である神崎メリさんは「男のトリセツを読んだ男のトリセツ」を書かなくてはいけなくなってしまうでのはないか。仕事を増やしてしまうのではないか。これが著者に対する懸念だ。私はそれが不安でならない。幸い、まだ買っただけなので中身は一部しか読んでいない。仮に全部読んでしまった場合は、その後のいきさつもnoteにあげようと思う。