「不快」の排除

 


僕は赤ちゃんの鳴き声をうるさいと思うことがある。だが、そう発言すると、子供がいる親や、赤ちゃんに対して一定の理解がある人達からは、「親になったら分かる」とか、「あなたには心がないのか?」などと言われる。ただ、僕はうるさいと思うだけで、そのうるさいと思う感情に付随して、何か行動を起こすわけではない。僕の対処法は至ってシンプル。何もしない。時が流れ、赤ちゃんの鳴き声が聞こえなくなるのを待つ。善良な行動をするわけではなく、ましてや不道徳な行動をするわけでもない。「何もしない」は正しいのか?正しくないのか?善良な心を持っている人は、思いやりが働き、赤ちゃんに泣きやんでもらおうと努める。反対に、邪悪な心を持った人は赤ちゃんの泣き声を不快に感じ、その不快な存在を排除しようと考え、行動する。赤ちゃん、またはその親に対して、「うるさい!」、「そいつを黙らせろ!」などと罵声を浴びせるかもしれない。また、それで収まらない人は暴力的な行動で対象を排除しようとするかもしれない。犯罪を犯すことだってありえる。 
 僕は悪いことを考えるのは別に構わないと思う。推理小説は頭の中で一度人を殺さないと描けない。でも、それを行動に移してしまうのは悪だと考える。自分の手によって赤ちゃんが泣き止んだ世界を妄想して、怒りの感情を収めてほしいと思う。そう考えると、やはり僕の行動は正しいとは言えないが、悪でもないと思う。ただ、赤ちゃんを持つ親にしても、赤ちゃんに対して一定の理解がある人達にしても、赤ちゃんの泣き声を不快に思う、または思ってしまった経験はあるのではないか? 
 人は今まで都市化を進めていくに従って、不快と思うものを排除してきた、牛や豚、鳥などの生き物を殺す事は不快だから、「お金」によって生き物を殺す行為を知らない誰かに任せ、自分たちの生活から排除した。日本は敗戦国という汚名を返上するため、経済を成長させた。大量生産、大量消費の社会に労働者が働く意味を考えることは企業にとって何の利益もない。むしろ労働者が主体的、創造的になってしまうと、いつ会社を辞めてしまうか分からない。だから労働者を機械化させ、労働者の思考を排除した。この連鎖が今後も続いて良いものなのか。この連鎖の先には赤ちゃんの泣き声を排除することが待っていないか?科学技術、医療技術の進歩でそれが可能になってしまうかもしれない。だが、もしそうなった時に大事なのは、それが正しいのかを一度立ち止まって考えることだ。既に世の中ではそのようなことが起こっているかもしれない。もう立ち止まらないといけないのかもしれない。